2015年12月25日金曜日

クリスマスおめでとうございます。

 


 クリスマス、おめでとうございます。
 神の子、イエス・キリストのご誕生をお喜び申し上げます。

 このご誕生の出来事を聖書は「わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)ことだと教えています。教会に属しているキリスト者だけでなく、みんなのために、そしてすべての人の間に来てくださったのだと記しているのです。

 日本では「クリスマスは24日のイブで終わり」という観がありますが、そうではありません。まだしばらくクリスマスの喜びの余韻を味わう大切な日々を教会は送ります。まさにこれからしばらくがクリスマスシーズンの到来です。

 クリスマスの喜びがみなさんの上に、そして新しい年の上にも豊かに注がれますよう、お祈りいたします。

日本福音ルーテル教会総会議長 

 立山忠浩

2015年11月30日月曜日

心にしみるクリスマスのために



クリスマスを迎えるための準備の時となりました。

何ごとにも準備のときがあり、充実した準備を行うことで、恵みに満ちた素晴らしい時を迎えることができる、クリスマスもこれと同じです。

この準備の期間を教会はアドベント(待降節)と呼んでいますが、それは「少しずつ近づく」とか「段々をやって来る」という意味を持っています。私たちの日常生活は慌ただしく、一週間があっという間に過ぎてしまう、それが普通かも知れません。クリスマスもこれと同じで、忙しい毎日を過ごしていて「あっという間に来てしまった」となりかねません。
でも、それでは少し寂しい気がしますし、もったいないように思います。

教会の礼拝堂には今、アドベントリース(クランツ)が置かれ、ろうそくが立てられています。日曜日ごとに1本ずつ灯をともし、クリスマスの日にようやく4本のろうそくに灯がつくのです。ゆっくり、少しずつクリスマスに近づいてゆくのです。

このゆっくりとした時間を大切にし、日々の歩みを見つめ直し、残り少なくなった一年を少し振り返り、そして聖書のクリスマスの話しに心を静めて聞きましょう。きっと心にしみる、素晴らしいクリスマスを迎えることになることでしょう。

どちらの教会でもお気軽にお訪ねください。
 
日本福音ルーテル教会総会議長 
 立山忠浩

2015年10月2日金曜日

読み、聞く秋

  
 秋になりました。実りの秋、紅葉の秋、物思いに耽る秋など、秋にちなんだ言葉を思い起こします。もうひとつ加えるならば読書の秋でしょう。
 
 最近はスマホやタブレット版などのデジタル画面でも読書できるようになりました。私はまだ紙の感覚から離れることができませんが、便利な時代になったものです。
  
 「読書」とは文字通り書物を「読む」ことです。目を使って読むわけです。でも書物は目だけでなく、耳で聞くこともできることに先日、気づきました。
 
 聖書には「信仰は聞くことから始まるのです」という言葉があります。
 何事も聞くためには忍耐が必要です。人の話を聞くのも同じです。聖書の語る声であるなら、なおさらのことです。いや、忍耐だけでなく、何が聞こえてくるのか心を静め、耳を澄まさなければなりません。
 

 日常の騒がしさから少し離れ、心を整え、聖書の言葉に耳を澄ます。
 きっと恵みに満ちた秋を体験されることでしょう。
 
 どうぞお近くのルーテル教会をお訪ねください。
 
 日本福音ルーテル教会総会議長 
 立山忠浩
 

2015年9月30日水曜日

何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、日々の生活に悩みを抱えている人たちに、「野の花がどのように育つのかよく見てごらん」とイエス・キリストは教えてくださいました。日々の生活に心を乱されながら生きる人の様は、いつの時代も同ではないかと思います。

 ではどうすれば良いのか。日々の生活から少しだけ目をそらして、足下に咲いている道端や野の草花に目を向けてごらんと、イエスは言われたのです。少し歩み を止め、腰をおろしてじっと見つめてみる。すると日ごろ気づかなかったものを発見し、新しい命の息が吹き込まれるに違いありません。

  私たちの教会の働き、このホームページもこれと同じです。各ページをご覧いただき、日々の生活から少しだけ目をそらし、神様から命の息を吹き込んでいただければ幸いです。
また、お近くのルーテル教会の扉を叩いてくだされば幸いです。皆さんとご一緒に神様の祝福をいただければ、これほど幸いなことはないことでしょう。

 ご一緒に神様に祈りと讃美を献げましょう。どうぞ一度お近くに日本福音ルーテル教会をお訪ね下さい。心から歓迎されることでしょう。

 総会議長 立山忠浩

2015年5月1日金曜日

人生に豊かな実りを蓄えるとき



新緑の季節が終わり、木の葉の色も徐々に深い緑色を蓄えようとしています。
 これから長い、暑い季節を迎えることになります。

 人間の体で言えば、これからの季節は子どもから大人への成長の時となります。
 
 教会の歩みもこれと同じように譬えられるでしょう。
 これからの時期は信仰の成長を目指す時です。
 植物が地下から栄養分や水を吸い上げ、太陽の恩恵にあずかることで成長するように、あるいは子どもたちが日々の食物や飲み物をいただいて成長するのと同じように、私たちも神様からの「霊の糧」をいただいて日々成長させていただくのです。
 
 神様の前では高齢者であろうと「神様の子ども」ですから、信仰の成長は生涯続くのです。
 
 「霊の糧」とは神様の言葉です。
 聖書の言葉、イエス様の教えとその生き方のことです。

 お近くの教会で行われる礼拝や聖書会、祈祷会にぜひお越しください。  
 「霊の糧」をいただくことで、人生の中に豊かな実りと祝福を蓄えることができることでしょう。

 2015.5.1 JELC総会議長 立山忠浩

2015年3月30日月曜日

主イエスのご受難を偲ぶときをご一緒に

教会の暦は「受難週」に入りました。次週4月5日の復活祭までの一週間、イエス・キリストの十字架の出来事を覚えてまいります。それぞれの教会で、特別な集会を企画されていると思いますので、ぜひご参加ください。

十字架は約2000年前の出来事ですが、決して過去のことではありません。

なぜなら、イエス・キリストが背負われた十字架とは、いつの時代も見出せるものだからです。

例えば、苦しみや悲しみという重い十字架というものがあるでしょう。
病気や貧困という苦悩や痛みを伴う十字架もあることでしょう。
戦争や犯罪、あるいは事故や自然災害のゆえに傷つき、命や財産までも奪われる方々もいます。これもやはり重い十字架でしょう。

また、自分自身のことをよく見つめ直すならば、至らなさや罪深さを感じざるを得ないこともあるはずです。
それも実は十字架なのです。

自分自身の十字架があり、隣人の十字架があり、日本中の、世界中の十字架もあります。

きっとイエス・キリストの十字架は、このようなすべての人々の重い十字架を背負うためだったのです。

慌ただしい毎日を送り、忙しい日々を過ごしている、これが私たちの日常かも知れません。

よく耳にすることですが、「慌ただしい」とは「心(忄)が荒れる」という漢字ですし、「忙しい」は「心を亡ぼす」と書きます。

その心を健全で、健康的なものに回復させていただき、自分自身を見つめ、自分の周囲に起こっていることを見つめたいと思います。

この受難週、そしてイースター(復活祭)にお近くのルーテル教会をぜひお訪ねください。心から歓迎されることでしょう。

2015年3月30日

日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩
 

2015年2月9日月曜日

潤いのある自分のために



寒さもあともう少しとなりました。
日差しが日増しに強くなり始めているように感じます。
春の便りもこれから聞こえ始めることでしょう。 

ある本に書いてあったことです。
小学校の理科の時間に、先生が生徒たちにこう尋ねたそうです。
「氷がとけたら何になりますか」と。
多くの子供たちが「水になります」と、いわば模範的な答をしたそうです。

しかし一人の生徒は「氷がとけたら春になります」と答えたのだそうです。
理科の授業ですから、ほとんどの子供たちの答が正解でしょう。
しかしもう一つの答も確かに正しいのです。
本の著者は、この答には何気ない暖かさを感じると書いていましたが、同感です。
 
このようなこぼれ話を聞くと、私たちは頭の中や心の中で、機械的で、潤いのないことを思い巡らしているように思えて来ないでしょうか。
瞬時に答を見つけること、たくさんの情報をたやすく得ることはできるでしょう。
でもそれには潤いや温もりがあるのだろうかという問いです。

イエス・キリストの教えにはどこか潤いがあり、温もりがあるのです。
その教えに触れることで、私たち自身が潤いと温もりを持つ本来の自分へと、少しずつ戻されて行くのです。

教会の礼拝や様々な集会はこのために開かれています。

どうぞ、お近くのルーテル教会をお訪ねください。心から歓迎されることでしょう。
2015.2.9
日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩


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2015年1月8日木曜日

新年に新しい息吹を



新年を迎えました。
新しい年のみな様の歩みの上に、神様の祝福をお祈りいたします。
 
新年の新しさとは、例えば暦の新しさに見られるように、年月の新しさにあると言えるでしょう。手帳が新しくなり、すでに今年一年のスケジュールが埋まり始めている方もいらっしゃることでしょう。このような暦の上の新しさです。
 
ところが、そのような新しさとは異なる別の新しさがあると言われることがあります。それは年月の新しさとは異なる新しさなのです。例えば、昔の古いものであっても、その人の出会い方によっては新しく感じるものがあります。故事の「温故知新」という言葉はこれを表現しているのでしょう。
 
聖書もこれと同じです。書かれた年代や登場人物はとても古い時代にさかのぼりますが、しかし驚くほど新しい響きがあるのです。暦の上では、私たちは彼らより随分新しい時代に生きているように感じますが、ところが私たちの考えていることや価値観の方がよほど退化し、新鮮さを失っているように思えて来るのです。私たちの日々の歩みや生活もこれと同じような状態に陥りかねません。
 
2015年の新しい歩み、聖書から新しい息吹を吹き込んでいただきましょう。教会の礼拝、あるいは聖書の学びや祈りの会は、このために大きな助けとなることでしょう。
 
どうぞ、お近くのルーテル教会をお訪ねください。心から歓迎されることでしょう。

2015.1.8
JELC総会議長 立山忠浩