2018年5月22日火曜日

慰めの主 聖霊

 

新緑も色濃く収まり、梅雨の走りを思わせる天気が続くようになって来ました。
 
教会の暦は聖霊降臨祭(ペンテコステ)を迎えました。聖霊の降臨によってペトロを中心とした弟子たちの宣教が始まりました。ここから、ペンテコステは「教会の誕生日」と言われるのです。
 
聖霊のことをマルティン・ルターは「慰め主」と呼びました。宗教改革を推し進める際の苦悩のときに、病気に苦しめられたときに、子どもを亡くしたときもルター自身が聖霊の慰めを体験したからです。聖書の言葉が彼を慰めたのですが、その言葉にはいつも聖霊が伴っているとルターは信じたのです。
 
そのルターは、自分自身が慰められることだけに終わりませんでした。彼自身が人々を慰めるために力を注いだのです。ルターの書いた膨大な量の「慰めの手紙」はそれを示しています。
 
慰め主なる聖霊は、今日も聖書の言葉を通して私たちに注がれています。教会の礼拝では聖書が読まれ、説教が必ずありますが、そこにはいつも聖霊が伴っているのです。だからまず自分自身が慰めをいただくことができるのです。ただ、そこで終わることなく、今度は自分自身が隣人に慰めの言葉を語る者になりたいと願うのです。
 
お近くの教会の礼拝へどうぞお越しください。慰めの言葉と出会うことができることでしょう。

2018.5
日本福音ルーテル教会

2018年4月2日月曜日

新しい生命の誕生を覚える時

  
                    撮影/Kazue Taniguchi

 例年にまして早い春の到来を感じる時となりました。桜の花びらが役目を終えて散り終えた後に、まるで新しい生命が誕生するかのように新緑の葉が頭をもたげています。自然界の生命の躍動を感じる時、教会の暦はイースターを迎えました。イエス・キリストの死からのよみがえりを祝い、覚える時です。

 キリストの復活は2000年ほど前に起こったできごとですが、大切なことは、その復活の知らせが、自分とどんな関係があるのかということです。しかも自分が死んだ後に天国に行ってよみがえるということではなく、今の日々の生活とどんな関係があるのかということです。つまり、私たちの今の生き方に対して、聖書は問いかけるのです。

 自分の生き方を問い、幸いな生き方を見つけるのです。なかなか自分一人でできることではありません。「わたしは道であり、真理であり、命である」とイエスは言われました。真理と命に至る道を見つけ、その道を歩むために、教会の礼拝、またキリスト者との語らいはきっと大きな助けになることでしょう。

 お近くの教会の礼拝へどうぞお越しください。

 2018年4月
 日本福音ルーテル教会
 総会議長 立山忠浩

2018年2月16日金曜日

十字架、それは過去のことではなく



 教会の暦は2月14日(灰の水曜日)から四旬節に入りました。イエス・キリストの尊い十字架のできごとを覚える大切な40日間を過ごします。

 イエスの十字架は2000年前に起こった出来事ですから、過去のことと言えないことはありません。しかし十字架という出来事はいつの時代にも、どんな人にも起こっていると言わなければなりません。なぜなら、十字架とは重荷や苦難という意味も持っているからです。

 だれでも、他の人とは異なる自分自身の十字架というものを背負っているはずです。この世に生きている限り、放り出すことのできないものです。その自分だけの十字架を見つめることは辛さを伴うものですが、しかしもっと私たちが見つめなければならない十字架があるのです。それは、私たちのそれぞれの十字架を一緒に背負ってくださっているイエス・キリストの存在です。まるで2000年前のできごとのように、いまも私たちひとり一人の十字架を一緒に担ってくださっているのです。

 この十字架を見出す人には、限りない慰めと励ましが与えられるに違いありません。いやそれだけでなく、希望と喜びがもたらされるのです。なぜなら、十字架をしのぶ四旬節の後には、イエス・キリストの復活、すなわち絶望や悲しみに対する勝利が訪れるからです。

 それぞれの教会の礼拝へどうぞお越しください。

2018.2 
日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩

2018年1月6日土曜日

新しい思いに満たされるために

 


 新年を迎えました。新しい思いに満たされる時です。
 
 聖書に「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着ける」(エフェソの信徒への手紙4章22節以下)という言葉があります。「新しい人を身に着ける」とは不可解な言い回しですが、新しい思いにされることです。新年に相応しい言葉です。

 ただ、新しい思いに満たされるためには「古い人を脱ぎ捨て」なければなりません。新鮮な息を吸い込むためには、まず肺の息を吐き出すはずです。古い息を吐き出すことで、新しい空気を吸い込むことができるのと同じです。

 では「古い人」とはどんな人のことでしょうか。どうしても過ちや失敗をしてしまう人、あるいは悲しみや弱さ、傷を背負って来た人のことです。それはすべての人のことだと言わなければなりません。どんな人も昨年までの歩みの中で、それらの何らかのものを身に着けて過ごしたはずです。それを吐き出すのです。それを脱ぎ捨てるのです。その古いものはきっと主イエス・キリストが引き取り、すべてご自身が背負ってくださるのです。そして代わりに、生命を育む新しい息を与えてくださることでしょう。
 
 古いもの脱ぎ捨て、新しいものを着る。古い息を吐き出し、新鮮な思いに満たされる、そのような新しい一年でありますよう、お祈りいたします。

2018年1月
日本福音ルーテル教会
総会議長 立山忠浩